マーラー交響曲第七番

久しぶりにクラシックを聴きに行ってきた。お義父さんが急に行けなくなったらしく、チケットを頂き、一人で。読売日響の定期演奏会。シルヴァン・カンブルランの指揮。
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座席はちょうど指揮者と向かい合う、位置で、オーケストラを後ろから眺める位置だった。
演奏曲は、誰しも耳馴染む、アイネクライネナハトムジーク。それから、演奏機会の非常に少ないマーラー交響曲第七番。

アイネクライネナハトムジークは、あたりを散歩するように軽快な演奏で、重くなく撫でるような心持ちがした。

圧巻はマーラー第七番。
全然知らない曲で、副題は夜の歌とつけられているらしく、マーラーの中ではあまりにも展開が早く、一様でなく、分裂症的などと批判されることもある楽曲らしい。
演奏の機会が少ないのは、難しい構成もさることながら、カウベルや、ルーテ(鞭)や、ハンマーなどかわった楽器が出てきて、そろえるのが大変というのもあるとのこと。

大長編の映画を観た後のような心地よい疲労感を感じた。
夜の歌、というよりは、自分がどこか知らない惑星に置いてけぼりにされて、ただただ広がる草原の地平と、見たこともないような高さの山が延々続いているような風景が見えた。ホルンが力強く鳴り響いたり、バイオリンがリズムよく跳ねたり、チューバが重くのしかかり…
圧倒的な荒涼とした大地や大きな川の流れが続いて、体が本当に強張った。
指揮者の表情や、体を大きく前後させて強く弓引くソリスト、順番を待つ打楽器など、はっきりと見えて、一秒も気が抜けなかった。
確かに明暗がころころと変わり、曲調も緩やかになったり、ドンと急に強くなったり、移変わりが激しくて、予定調和の旋律はなかった。
でも、その次どうなるかわからない激しさが、自然をありのままに表現しているようで、本当に素晴らしかった。素晴らしかった、以上の言葉が出ない。
確かにこの曲は、ともすれば継接ぎの多いまとまりのない演奏になってしまいそうな譜面かもしれない。
でも、シルヴァン・カンブルランの豪快な指揮で、その継接ぎが、あたかもそれこそが本当の音楽だと言わんばかりに強烈な印象を残していった。

ここのところ、仕事に追われまくっていて、なかなか引き出しが空っぽになりかけていたけれど、すごいパワーをもらえたなと思う。いい夜だった。

蕎麦飲みがしたくて、家で。

蕎麦屋で休日の昼下がりに飲むのが好きだ。

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いわゆる蕎麦飲みは、様式美に溢れている。蕎麦の前に飲む、蕎麦前が楽しみ。

まずは蕎麦屋についたら、瓶ビールを頼む。板わさと焼き海苔なんかを頼んで、一杯。
落ち着いたら、今度はだし巻きとか焼き味噌を頼んで、お酒に切り替える。
肴をあてにお酒をやっつけて、最後に蕎麦。
シンプルに盛り蕎麦。
ささっとたぐって、蕎麦湯でしめる。

あぁ、蕎麦屋が呼んでる。蕎麦飲みに行きたい。

でも蕎麦飲みという行為は、非常に微妙なバランスで成り立っていて、たくさんの決まりごとがある。
長っ尻は無粋だからあんまり長居してはいけないし、昼下がりの蕎麦屋が暇な時を狙うべきだし、お酒は多くても3本までにすべきだし、もちろん大声で笑い声をあげるような飲み方もいけない。

第一、蕎麦飲みに向かう心持ちがゆとりに溢れてるものじゃないとダメだ。
とてもとても蕎麦飲みに行きたかったんだけど、残念ながらもう夜だったし、蕎麦飲みにいいような蕎麦屋も思い当たらなかった。

まぁ、じゃあ家でやればいいかって。

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一品目、板わさ。
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二品目、だし巻き卵。卵焼きに関してはもはや職人なみだな。
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三品目は、春菊とあげの炊いたん。甘めの味付けで京都のおばんざい感を出してみた。
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四品目はトマトの出汁仕立て。
この蓋つき小鉢は、箱根の宮之下にあった骨董屋さんで買った、古伊万里焼成がうまくなかったのか、内側の藍が黒変してるのも愛らしい。柄は千鳥や巻物や熨斗などおめでたいもので溢れている。
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ずっとこの蓋つき小鉢をデビューさせたかったけれど、何かインパクトありそうで、器に似つかわしい料理ないかなと考えていたんだけど、トマトの赤が器に合ってていいかなと。
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五品目に鰤の塩焼き。寒鰤は脂がのっていて塩だけでとても美味しい。
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錫の酒器で飲むとお酒がまるくなってよい。
蕎麦飲みは家でやってもいいのである。
※締めの蕎麦は盛りにしました。

1月27日 新聞広告で嫁募集

明治16年の本日1/27は求婚の日。

中尾勝三郎という人物が生涯の伴侶を求めるため、新聞に求婚広告を出し、これが日本の新聞紙史上初めての求婚広告ということで、求婚の日として制定された。

「先頃女房を離縁して不自由勝ゆえ、貧富を諭せず、十七歳以上二十五歳にて嫁にならうと思ふ物は紹介あれ」
という文面で伊勢新聞に掲載されたこの求婚広告は非常に端的である。

その結果は、というと実際に19歳の女性が応募し、めでたく結婚したということである。

今ならリスティング広告でもうつ感覚だろうか。

1月26日 世界最大のダイヤモンド カリナン

1905年の本日1/26は、南アフリカの鉱山で、世界最大のダイヤモンド、「カリナン」が発掘された日。鉱山の持ち主サー・トーマス・カリナンに因む。3106カラッとというこのダイヤは、カットされ、現在はイギリス王室及び王族が所有している。
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1月25日 八百屋お七

1683年の本日1/25は、天和の大火。
江戸で起きた大規模な火事で、駒込から出火し正午から翌朝5時頃まで燃え続け、死者は3500名以上。

この火事で避難した被災者の一人に八百屋のお七がいた。
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お七は、火事からの避難のために本郷の吉祥寺に家族とともに身を寄せたが、その際寺の小姓と恋仲になった。
避難が終わり自宅に戻ってからも小姓が忘れられないお七は、また火事になれば会えるかもしれないと、ついに放火に及んだ。
火事は幸いすぐに消し止められ、大事には至らなかったが、お七は付け火の罪で、鈴ヶ森刑場で火あぶりとなった。

江戸時代、木造の家屋と密集した都市形態で、放火は大規模な災害になりやすく、最も重い罪である。

ごはんのこと。

私は、いつものfacebookの投稿をみてれば分かる通り(笑)、ごはんに対する興味とか欲がとてもつよくて、美味しいものを食べたり、作ったり、見たり、情報収集することがとても好き。

だから、一日三回しかごはんを食べる機会がないのが本当に残念だし、100歳まで生きるとして、のこりの食事回数約74000回程度がどんどん少なくなっていることに焦りを感じる。古代のローマ貴族のように、美味を愉しむために、美味しいものを食べて、吐き捨てて別の美味しいものを食べる、というようなことまでしたいとは思わないけれど。

お腹が空いて、空きっ腹を満たすために食べるというより、今ああいう味のものを食べたいというのが先に来て、お腹が空いてなくても食べたくなってしまう。せっかく始めたマラソンも全然追いつかなくて体重は微増、お腹は盛大に育っている。気をつけなくては。

なので、ごはんは私にとって超々重要アクティビティ。
とはいえ、高級なものだけ食べたいとかいうグルメなんではなくて、最近はお昼ははるさめ+コンビニおにぎりだし、吉野家とか、カップ麺とかも食べるし、ジャンクフードも大好き。マックのチキンナゲットなんて48個入り余裕で食べちゃう(チキンナゲットとアメリカンドッグはこの世の二大美味しいものだと思う)。

今日、なか卯でご飯食べていて、ふと思ったのが、「いただきます」「ごちそうさま」をいうのがレアだってこと。私はいただきます→たべる→ごちそうさま、(美味しかったです)、がセットになっていて、ひとりだろうが牛丼屋だろうが、小声でも必ず言ってしまう。
ごはんを人生の重要なパートだと思っているから、いただきます・ごちそうさまは大事にしたいなっていうのもあるけど、言わないとなんとなく落ち着かない。とはいえ、牛丼屋さんでひとりでごちそうさまって言うのが恥ずかしいってのもわかるんだけど。
一部には客はお金を払ってるんだからごちそうさまっていう必要ないなんて意見もあってびっくりする。そんなこと言ったら対価のないごはんなんてこの世に存在しないから、ごちそうさまっていう言葉消滅するがな。

なか卯でもごちそうさま、って言えばいいのに。

ちなみに、店の人にごちそうさまの後に美味しかったです、って言うのは会社の先輩がやっていてとてもかっこいいなと思ったので、その後ずっとやってる。美味しかったです、ってわざわざ店員さんに言うだけで、とても店の人に喜んでもらえることがあって、そんな一言でもっと美味しいものつくろう、がんばろうって思えてもらえたら、美味しい店が増えてラッキーだし。

なんかよくわからん内容だけど、ごはんについてなんか書いときたいなとおもった土曜日の昼。

1月6日 平安神宮放火事件

1976年(昭和51年)1月6日、京都にある平安神宮が放火により、内拝殿及び本殿が焼失した。
この放火事件は、極左活動家、加藤三郎が起こしたテロ事件であった。

平安神宮は1895年(明治28年)に「平安建都1100年記念事業」として創建された神社で、平安京を建都した桓武天皇を祀っている。加藤は「自らの権威誇示のため、民百姓に塗炭の苦しみを与えるような平安京を造営し、また領土的野心のために蝦夷を侵略し、蝦夷人を虐殺・奴隷化した」桓武天皇祭神として祀ることは「神」に対する冒涜と思い込んだ。やがてその思いが高じて平安神宮へ放火するに至った。

昭和51年に平安時代の民草が塗炭の苦しみを得たから、桓武天皇を祀る建物を焼く、とはなんとも言えず滑稽だが、当時盛り上がりを見せていたいわゆる活動も、特色を出さないといけなかったのであろうか。

加藤は1976年の正月三箇日の初詣参拝客にまぎれ事前偵察を行った。そして犯行は1976年1月6日午前3時35分頃行われた。加藤は平安神宮内拝殿へ放火し逃亡した。京都市消防局は最高レベルの「全出動」を発令し、市内各消防署から消防車が駆けつけたが、既に内拝殿や本殿に燃え移っており、外拝殿(大極殿)への延焼を食い止めるのがやっとであった。  
平安神宮は明治時代の創建であったため文化財指定を受けておらず、当時の消防法の規定では自動火災報知設備の設置が義務付けられていなかった。そのため発見が遅れ、大火事となってしまった。  その後、加藤は平安神宮の近くにあった京都会館京都市美術館に犯行声明の電話をかけ、闘争の存在を誇示した。ところが「電話があった」という報道しかされず、あまり話題にならなかった。  続いて2月11日に、加藤は「世界赤軍日本人部隊・闇の土蜘蛛」名義の犯行声明文を新聞社に郵送した。犯行声明文には「桓武朝廷軍による蝦夷征伐を継承する天皇制日本帝国に対して宣戦布告する」旨が記されていた。しかし、何日経っても犯行声明文が公表されることはなかった。  実際はただのイタズラ電話だと判断されただけだったが、加藤はこれらの過程で「反天皇制闘争」を黙殺して葬り去ろうとする「天皇制日本国家の陰謀」と感じ、ますます敵対意識を強めることになった。その結果、加藤は黙殺できない大きな事件を起こすため爆弾テロを行うことになった。

闇の土蜘蛛…漫画『hunter×hunter』みたいだ…。

ちなみにその後逮捕され、加藤は現住建造物放火罪(刑法108条)の罪で起訴された。
放火罪は、「現に人が住んでいる建物かどうか(現住性の有無)」で罪の重さが大きく異なる。当然、現に人が住んでいる建物に放火する方が罪が重くなるのである。
第一審(東京地判昭和61年7月4日判時1214号34頁)、控訴審(東京高判昭和63年4月19日判時1280号49頁)ともに現住建造物放火罪の成立が認められたことに対し、弁護人は、「平安神宮社殿は、人が現住していた社務所などの建物とは別個の建造物であるから非現住建造物放火罪が成立するにとどまる」旨を主張して上告した。しかし、最高裁は、放火された社殿が、現住建造物である社務所などと物理的機能的に一体性を有するので現住建造物であると判断して、弁護人の上告を棄却し、現住建造物放火罪の成立を認めている。

これは、刑法学上、現住性の判断に関する重要な判例として、司法試験受験生はかならず学ぶもののひとつである。